旅人としての「客」概念
例によって自分の好きな句が書き並べてあるだけです。
今回は、タイトル通り旅人としての「客」が意味するものについての話。
順風波以従流兮、焉洋洋而為客。
風波に順いて以て流れに従い、焉に洋洋として客と為る。
波風に流されるまま、私はゆくあてもなく彷徨う旅人になった。(『楚辞』哀郢)
住む場所を失い、やむをえず故郷の郢(楚の都)を離れる人が川を下っていくくだりです。
王逸の注に「”洋洋”は帰る所が無いのをいう」*1とかあるのを見て興奮しました。
帰る場所がない人概念は最高。楚辞にもそう書いてある(ないです)
このあたり、庾信が好きな理由の一つでもありますね。
楚辞はところどころしか読めていないのですが、大体読むたびに好き……ってなるのでもうどうしようもないです。好きな概念の塊なんじゃないかと疑ってしまうくらい。楚辞はいいぞ(いいぞ)
古詩十九首から好きな一節をもうひとつ。
人生天地間 忽如遠行客
人 天地の間に生れ、忽として遠行の客の如し。
人は天と地の間に生まれて、はるか遠くへ行ってしまう旅人のようだ。(「古詩十九首」其三)
あっという間の人生なんだから楽しんで生きようじゃないかという享楽主義的なうたの、人生が儚いことをうたうくだりです。
李善の注に
『尸子』に老萊子曰く「人の天地の間に生るるは、寄(やど)るなり。寄る者は固より帰る」と。
『列子』に曰く「死人は帰人と為せば、則ち生人は行人と為す」と。
とあって、もう好きな要素しかない。
列子はきちんとテキスト確認していないのですが、ネット検索した限り「昔の人は死人のことを帰人と言ったそうだ。つまり死人を帰人と言うなら、生人は行人だろう」ということのようです。
ちゃんと勉強してないので雑な言い方になりますが「人の生は仮のもので死んでも元の場所へ帰っていくだけだ」みたいなところがいかにも道家思想という感じでまた興奮します。
こちらは旅人は旅人でも、旅人自身というよりは第三者の視点から見て「遠くへ行って帰ってこない」刹那的なイメージが出ていますね。*2
どちらにせよ、ゆくあてもなく彷徨う旅人自身と、そんな旅人が他から見て帰ってこない存在であるのは、根っこは同じことであるようにも思います。
陸機の「嘆逝賦」にも
託末契於後生、余将老而為客。
末契を後生に託し、余は将に老いんとして客と為る。
若い者たちと交わってみても、私はやがて老いて死んでいく身、心から打ち解けられぬ遠行の旅人である。*3
という一節があって、李善が「言うこころは我将に老いて死せんとし、汝と客と為る」と注して先の古詩を引いています。
家族も友人もどんどん先立ってしまって、子や孫の世代と関わろうとしても馴染めない孤独感が出ていて、「客」のイメージをうまく利用しているなと思います。
参考